初めまして
このサイトの管理者で記事を書いている「明徳 義道」と言います。
この名前はあくまでもネット上でのみ使用しているハンドルネームで
由来は亡くなりましたわが父の戒名を一部変えて名のっています。
亡くなったものの戒名などと、うさん臭く思われる方もいるでしょうが、
私はわが父を尊敬し、忘れないように肝に命じておりますので
この点はご理解とご容赦を願います。
1956年生まれの男性です
バツイチで成人した子供が、4人います。
子供は、長女、長男、次女、次男で各自2歳づつ離れています。
人からは、上手くやったねとよく言われましたが、
計画してそうなったわけではなく、単なる偶然です。
生活保護受給者になる前は
2020年の現在から10年前の2010年の事。
この年は最悪の年でしたね。
勤めていた会社が前年の12月に倒産。
当時私は、親会社に出向していたので、倒産した時は
親会社から誘いはありました。
しかし、採用条件で折り合わなかったことと、
仕事にあぶれた同僚と下請けで、
親会社から仕事を貰うことにしました。
しかし、一緒に仕事を始めた者の
いい加減さと勝手な行動から、分裂し
仕事を受けられなくなり、無職に。
さらに追い打ちを掛けるように、家庭内にも
不穏な風が吹きまくりました。
それは、当時の妻が不倫をして離婚することになりました。
その前の年から、妻に裏切られている感じて
何かおかしかったんですが、2010年に
それまで共に暮らしていた妻と離婚し、家を出ました。
離婚理由は、今はやり?の「妻の不倫」です。
不倫がばれたら、普通は謝罪をするものなんでしょうが、
元妻の人格は再枠で、全く謝罪をすることなく、
家から出て行けとのたまわるのでした。
家から追い出したい理由は、当時、元妻の母親が
体を壊し、同居して面倒見ていたので、
元妻とその母親を追い出すことが忍びなっかたからです。
私は、仕事を失い、家庭と子供を失い、住むところも失いました。
再出発の道のり遠く
離婚して家を出たのは6月半ばころ。
野宿するにも、まだ夜風は冷たく、わずかな着替えの入った
バックを枕に寝ることも奇美かったですね。
泣く泣く実の母と兄が住む狭い都営団地にあがり込むことに。
有難かったのは、何一つ文句も言わず、
黙って受け入れてくれたことですね。
(肉親って有難いものです)
暫くは、何も手に付かず、食事も用意してくれるのですが
申し訳なくて手が出ませんでしたね。
まるで、うつ病がさう初したかのように
一日、ぼーっとした日々を過ごしたものです。
一日一日と過ぎてゆくとやがて、少しは外に出てみようか
と言う気持ちも起きて、近くの図書館に入り浸ったものです。
(幼い頃から無類の本好きですので)
そんな日々をひと月ほど過ぎて、
やっと日雇いでもいいから、日給がもらえる仕事を
探す欲求が出てきました。
手元にお金があまり残っていなかったので
役所の福祉課に相談に行き、
お金を借りたこともあります。
(このお金働いてから、毎月返しに行きました)
ガードマンもしましたが、どうしても慣れず、
研修途中で辞めたこともありました。
2月ほど、過ぎてやっと携帯電派の検査をする
工場の仕事にありつくことが出来て、
これで、母と兄に少しでも恩返しが出来るかもと
ひと段落しましたね。
一山超えても波乱は続く
月曜日から金曜日まで何とか、昼間のアルバイトで
食いつないでまもなくのことです。
丁度、高校三年生になり、就職相談が始まった頃の
長女は、小学校に上がる頃から、母親にいじめられていました。
(その事に私が気づいたのはかなり後の事です)
散々いじめられ続けてきた長女が、とうとう母親と
衝突して、家から追い出されてしましました。
行きつくところは、私のところしかありません。
母と兄が住む6畳二間の都営団地に、
私が転がり込んできただけでも、
狭いのに今度は私の娘です。
それでも、事情をよく聞いてくれた母と兄は
気持ちよく受け入れてくれました。
半年くらいの後に私は、子供たちと暮らす為に団地の
済むこむことになりますが、それまで、長女は
私が居候する母親の家から通学することになりました。
この事件があってから、私は子供たちを引き取り
一緒に暮らす為に動き出します。
離婚したとき、唯一犯した間違いは
子供の親権者にならなかったことです。
子供たちの親権を取り戻す為に私は、
まず裁判所に「親権者移動」の申し立てをし、
まず、長女、長男、次女を取り戻すことに動き始めました。
と、同時に子供たちと暮らすための
都営団地の応募に申し込み、なんと1回で
審査を通り、都営団地に住む権利を得ました。
(実際に住むことになったのは、約半年後の事です)
時間が掛かったのは、子供の親権移動で、
これには、約1年かかりました。
しかし、まだこれで終わったわけではありません。
もう1人、母親に捨てられ、養護施設に入れられた
次男を取り返す必要がありました。
この次男は、高機能自閉症児で、
強い不安障害も抱えていました。
この次男の親権移動を裁判所に掛け合い、
移動が認められたのは、更に1年後の事です。
次男を受け入れるまでの間、私の
経験が建築業界でもある程度、
特殊な業種だったので直ぐに、
就職ができ、生活も少しづつですが
安定に向かっていました。
その中で、長女も5月に就職し、次男は
引き取る前から通っていた夜間高等学校に
通い、次女は中学校を転向せず、1時間半かけて
通学し、高校にも通うことが出来ました。
困ったことは、新しく済み始めた団地での生活に
電気製品や、家具、寝具が中々そろわなかったことですね。
私は、その当時、カードが作れないブラックになっていました。
その為、長女が多額の借金をして色々と
買いそろえてくれました。
(その借金も私と長女が働いて何とか返済を終えました)
その当時に買ったエアコンはもう10年たちますが、
今でも使っています。
次男を迎え入れる喜び
次男の親権の移動が裁判所に認められるまで2年かかりました。
しかし、次男とすぐに暮らせるわけではなく、
養護施設に入所している状態から、
まずは、離れ離れになった家族同士が慣れることから始めました。
半年くらいは、週末にお泊りして、姉たち、
兄と私に慣れることから始まりました。
中学校も2年生の秋に転向することも決まり、
転校先の教育委員会で知能検査も済ませ、
通常学級ではなく、支援学級に編入することになりました。
ここまで、正直長かったです。
私が離婚して、家を出てから約2年半から3年くらいかかりましたね。
それまで世話になっていた養護施設でも、
次男を引き取り同居することのお墨付きを頂き、
次男と同居できるようになりました。
長女も次女も長男もみんな一番下が
戻ってきたことがとても嬉しく
幸せが戻ってきたような錯覚を覚えたものです。
想定外はいつも突然に
次男を向かい入れて、
直ぐに予想外の事が起きました。
それは、次男が1人では通学できないという事でした。
養護施設にいた時は、1人で通学が出来ていたことが、
転校した中学校には、ひとりで行けなくなりました。
次男は普通の人では感じない事でも
強い不安となって、行動が出来なくなるのです。
これは想定外でした。
直ぐに市役所の福祉課に相談し、
通学の同行補助を頼みました。
朝だけ補助をしてもらえば、帰りは
1人で帰ってくることが出来ました。
しかし、福祉課の担当者がまるで
恩着せがましく、「特例を付けてやった」みたいなことを
行ったのがきっかけで、福祉課の担当者と激しいケンカをし、
同行補助を切り上げざるを得ませんでした。
1人で通学できない我が子のために、
私は3か月の休職を会社に願い出、
それが認められ、会社を休んで、次男と
中学校の通学を補助しました。
しかし、3か月で改善されることも無く、
結局私は会社を早期退職せざるを得ませんでした。
就職して1年足らず、貯金も出来ないぎりぎりの生活では、
家族を養う事も出来ず、直ぐに市役所の
生活援護課に生活保護の申請をしなければなりませんでした。
好き好んで生活保護を望んだのではないけれど
長女は、会社員として社会保険に加入していたので、
生活保護の対象から外し、世帯分離したうえで、
高校に通っていた長男と次女、障害を持った次男を
生活保護の対象として申請し、直ぐに認めて貰えました。
生活保護を受けていると、
仕事をしなくていいと思われる方もいるでしょうが、
まず、カードが作れないのでキャッシュレスの生活が出来ない。
生活保護を受ける前に作った借金は
貯蓄の一部とみなされ、生活保護費の減額処置をされ、
苦しい生活の中、毎月(時々遅れながらも)支払い続けています。
そして車を持てない、貯蓄型の保険に入れない、
銀行通帳の1年分を毎年、何度でも見せなければならない
行ける病院の制限がある。
まあ、それなりにきつい縛りがあるようなもので、
資産は丸裸をさらすように、
隠し事がないことを証明しなければなりません。
この生活は常に、市役所から見張られているような、
余りいい生活ではありません。
やがて、長男,次女が就職すれば、生活保護の対象から外し、
最後は、次男と私だけが生活保護の対象となりました。
そこに最後の追い詰めに来たのが
都営団地を管理している供給公社です。
人生はどんでん返しの繰り返し
毎年、真面目に入居者の申告をしていたのが
裏目に出たのか、最初の契約内容と入居者の
数が合わないので即日退去を勧告されました。
確かに、生活保護を受けるために、長女と次女は
別住所になりましたが、それが仇になったようです。
その勧告が来たのが、2019年10月。
それから、家探しが始まりました。
埼玉に行こうか、青梅にしようか、
冗談で住宅情報館で新築の契約が出来るか迄
行きましたが、全て駄目でした。
その中で残ったのが、住宅情報館が
勧めてきた物件があった場所、千葉市でした。
ここもなかなか決まらなくて、やっと
千葉市で済める場所も決まり、
子供たちは千葉市中央区に
私は千葉市稲毛区にそれぞれ別々に
済むことになりましたが、まめに行き来するので
さほどの不便は感じません。
千葉市に越してすぐに、私は成果保護の申請をし、
認められたので、今でも生活保護受給者です。
だからと言って、この生活を死ぬまで
続けようとは思っていません。
何とか、今の生活から脱出し、
経済的に自立するために
あがきまくろうと決めました。
その為に金持ちを目指す記録を付け始めたのです。
結婚前にプログラマーで働いていたことが幸いし、
インターネットで何とか生活費を稼ぐことが出来るようになり、
やっと生活保護を解除することが出来ました。
これから綴られる物語は、
私の金持ちへの挑戦の記録です。
もし、私の経験が誰かの役に立つならこれ程嬉しいことはありません。
どうぞ長い目で見守って頂きますようお願い致します。
明徳義道